予定日当日にブログを始めてみる。

予定日当日である。

 

子を孕むのは、これで二度目だ。今回は、二週間前の時点で一人目の出生体重を越える勢いで、見た目にも腹の出方に迫力があり、医師にも「今にも産まれそうなお腹やな!」と笑われたぐらいなのだが、それから二週間、お腹の中のヒトはなかなかにマイペースらしく、なんだかんだで予定日当日を迎えている。

 

妊婦本人としては、予定日からさらに二週間は正産期であるし、特に焦る気持ちもなく、中のヒトが出たくなったら出てくるだろうぐらいに鷹揚とかまえていたいと思っているのだが、義母の世話になっているデイサービスの送迎や訪問ヘルパーなどと顔を合わせるたびに、「まだか、まだか」と聞かれて、その度に受け答えするのに少々疲れてきた。

 

家族も同様で、二年前に脳出血で倒れ、半身麻痺と軽度の記憶障害のある義母は、ワタシ以上に毎日緊張して「そのとき」を待っているらしく、昨日の夕方などは何を思ったかベッドから一人で車椅子に移乗しようとしているところをオットに発見された。聞けば、てっきりワタシが産気づいてみんなで病院へ行ってしまった、と思ったらしい。その数十分前には、月に一度のケアマネージャーとのミーティングを義母の居室でオットもワタシも一歳児も顔を揃えて行ったばかりだったのであるが、記憶障害があるというのはこういうことで、特に短期記憶のもたない義母にはこまめに顔を出して安心してもらう以外に手はない。それはわかっていても、そうあんまり緊張せず、ゆったりしてて欲しい、と思ってしまう。

 

オットとは、二人目でもあるし早まる可能性を考えて、ここ一ヶ月ほど、ワタシの出産時と入院期間中の上の一歳児のお世話をどうするか、いざ出産、というときに義母をショートに預ける手筈にぬかりはないか、援軍をお願いしている知人に伝えておくことは何か…など、話し合いを繰り返してきたのだが、それが今か、今か、という緊張感を盛り上げているらしく、これまた顔を合わせる度に「…どんな感じ??」と聞いてくる。「オマエもか」と一瞬殺気だちそうになるのを抑えて、「こればっかりはねェ…」とお腹をさすりながら答えるということを繰り返している。

 

我々夫婦の場合、義父は既に他界しており、義母は在宅介護中で、ワタシ側の両親も頼ることができない事情がある。そのため、出産というこのイベントを夫婦二人で、それも介護と並行しながら乗り切らなければならないのは一人目のときもそうで、実際前回は、陣痛がきてからも、いつものように義母の就寝前のオムツ交換を済ませ、義母の寝たあとにオットと病院へ行きワタシはそのまま入院、オットは朝にいったん家に帰り義母をショートに預けてからまた病院へ来て立ち会う、というふうだった。

 

 

今回はそこへ、一歳児が加わる。ワタシとしては、とにかくオットに一歳児を見ててもらって自分はしっかり産む、と考えていたのが、一ヶ月ほど前にあらためて出産時の段取りを話していたら、オットは「いざそのとき」には一歳児を知人に見てもらっておいて、自分は立ち会う気満々、ということがわかった。エ?今まで人に預けたことがなくて、家族以外に抱っこされると固まる一歳児を?? 人に預けて??と、その考えのギャップに驚き、そこから慌ててこの一ヶ月間、援軍を要請した知人と一歳児のお近づきになる時間をつくったり、病院に、出産時は必ず一歳児が一緒であることを伝え待機できる場所を具体的に確認したりと、準備を進めてきたのだった。

 

 

一人目のときも、夫婦二人で、とは書いたけれど、見るに見かねたワタシの友人たちが産後すぐにかわるがわる家へ泊まり込みで手伝いに来てくれたり、今回も、たまたま仕事を辞めて次の仕事が決まるまでの端境期で身体の空いている知人が、いざ出産、というそのときに援軍として駆けつけてくれる手筈になっている。

 

我ながら、いつも行き当たりばったりの、崖っぷちのギリギリ人生だよなぁと思っていたのだけれど、先日、その助っ人の彼女が来てくれて庭で一歳児と戯れているのを見ながら、「いつも崖っぷち」はその通りなんだけど、そこへ、「でも、うまくいく」というのがくっつくなぁと、ふと思った。ものごとというのは、何か安心できる土台があって始まるのではなく、始まってから渦のように周りを巻き込んでいきながら転がっていく、そういうもんなのかもしれない。崖っぷち、と思って見ている景色と、「でも、うまくいく」と思って見る景色とは違っていて、顔をあげれば、その崖にも、小さな花が咲いていたりする、その花は、今まで見たどの花よりも美しかったりする、そういうことが、あるかもしれない。

 

 

ワタシがこういう感想を漏らすと、基本的に案ずるより産むが易し体質のオットは、「どうにかなるもんだよ」と言うのだが、いつもドキドキさせられるこちらとしては、すぐさま素直に「そうだね」とは言えないものの、内心では、そうかもな、と思い始めている。